akadowaki2006-05-21

すべて同じ型から切り抜かれた椅子。しかし、どこかがすこしずつ欠けている、という世界観。
しかしたとえば、あるひとつの椅子に着目すれば、のこりはすべてそれに対して欠けているか過ぎているかになるのだろうか。
「この私」の誤りえなさ、直証性が問題にされるのはどんな時か。それは、私にとってそれはこれこれなのだ、という形式で何かを言い表したい時に使われるのではないのか。それはあたかも「すべて同じ型から切り抜かれた」という前提と同じものをその背後にもっている。
「すべて同じ型から切り抜かれた」ということが問題とされるべきではないのか。それが不問にされている、あるいは隠れている、存在しないというのが「通常」の状態であるということ。イデアの設定・想定。
では「設定」しなければ、すべてが相対的に決定されるのか。たとえば、ある椅子に着目すれば、他はかけているか過ぎているといわれるのか。
「私=主体」とはどういうことを言い表したいのか。
客観的な事実、俯瞰的な視点というのは「西洋」のもののように言われるけれど、実際それはきわめて「東洋的」なもの言いではないのか。「無我」
見る者の絶対的な立ち位置。しかし見る者は、ただ見ているのではないのか。ただ見ている、などということは可能なのか。
この私が私であることがわかるのは、私でないものが存在するからだ、という時。この私がこの私であるという直示証が問題であるなら、それは閉じている。
「私の席」というものを考えてみよう。それはこの私の直証性とは別のところで動いている問題ではないか。それは「この私」をいわば他者に伝えるという問題である。しかも直証的にでなく。おそらくこれが主観ということで問題とされてきたことなのではないか(だから私にとってそれはあまり大きな問題には感じられないのではないか)。
だから逆に言えば「この私」の内部は真の意味で「自由」である(それを私はまさに真の意味でと言いたくなる)。しかしそれはいわゆる自由とは異質のものだろう。
「これは私だ」というのと「それは君だ」というのが同等のものとして扱われる状況が、「これは私の席だ」「それは君の席だ」ではないだろうか。
それは「席」それ自体を問題としているのではない。「席」はあくまで留保され、「私の」「君の」が問題とされている。もっと言えば、しかしここでも「わたし」「君」はたなあげされている。問題とされているのは、この「の」という関係性である。
それは関係性の正誤にかかわる問題なのではないか、あるいはそういう問題に過ぎない、と言いたくなる。それは何らかの方法で正誤を決定できるかもしれない。その何らかの方法というものに、深い問題があるかどうか。
「の」を支えているもの。あるいは「の」によってのみ存在がたち現れるというあり方。世界。