不安

「願い」と同様、未来への視線には「不安」もふくまれるように思う。「不安」は現在の漠然とした不快感をあらわすものではあるまい。かたちとしてはそうだとしても、「未来」という視野がなければ「不安」は単なる不快と呼ばれるものではないか。「未来」という視野があるからこそ「不安」と言うのではないか。
では、動物はそうした意味での「不安」を感じると言えるだろうか。現在の漠然とした不快感しかない、と言いたくなるだろうか。もしそうでないとしたら、動物も「未来」への視野をもっているということだろう。そうした方法で、私は動物が「未来」をもっていることを証明できるような気がする。同じようにして、私的言語のようなものも不可能ではない、ということを言えるのではないか。私たちは、何かそうした方法で「世界」を共有しているのではないか。つまり、「願い」とか「不安」といった方法で。そしてそれは、言語の方法、文法…からすれば、比喩的にいうと、半音の間の音、ミとファの間の音みたいな存在で、それを「無い」というのか「在る」というのかといえば、それはひとえに私がそれをどう見、聞くのかということだろう。