本質、外部

本質とか、あるいは(唐突ではあるが)オリジナリティといったものが、ある種の比喩であるとするなら、それはどういった種類の比喩なのか。
たとえば「願い」が単なる欲求とちがうところがあるとすれば、それがたとえば神仏のようなものへと投げかけられているという姿勢、そしてもうひとつ、ここにはない何か、たとえば未来のようなものへと投げかけられている点にあるのではないだろうか。
そしてそれは本質とか、オリジナリティとか、アートその他もろもろのことがらにも言えることではないだろうか。
それは何も解決しない、といった言明がある。その中では何も起こらない、ただそれがそうあることを説明するだけの閉じた世界(それは美しいものだろう)。ものごとを一歩も先へ進めない。世界がどうあるかをどれほど細かに説明しても、それがあるということを説明したことにはならないように、私にとっての問題は何ひとつ解決しない。いわば意味をもたない。それはたとえていうなら、比喩ではなく、例示である。
私の世界に意味を与えるのは、私の世界の外部である。
本質、といったことがらが何か意味をもつとしたら、それがここにはない何かをふくんでいるように響くからだろう。その響き方が問題なのだ。
ここにはない何かは、端的に「無い」のか、それとも「在る」のか。そのどちらでもないのか。あるいはこういう言い方はばかげているのか。
ここにはない何かがある、という言い方があるのではないか。
(よく私は「ないものがある」という言葉を自分の口から発しながら、にやりとすることがある)
外部をもった何ものかを、私は特に重要な言葉として扱うのではないか。
「本質」「オリジナリティ」「神」「在る」「この私」「アート」「願い」…