願い、願うこと

願うとき、いったい誰に対して願うのだろう。あるいは、対象なく願うというのが願いなのだろうか。そしてその方向性をもった、あるいはもたない願いをともに願うということは、いったいどういうことなのだろう。願いがかなうように願うというのは、どういう位置でものをとらえることなのか。そういう立ち位置に何か可能性のようなものをおぼえないか。
たとえば何かがうまくいきますようにという願いは、誰に対し何を願っているのだろう。それはたとえば神仏に対するものなのか。その神仏とはどういうたぐいのものなのか。いわゆる人智をこえたものとしての何かが、願いの成就という人智をこえたものの位置に見出される、あるいは願いの成就という人智をこえたもの自体が神仏と同じたぐいの何かとして願いの対象とされる。
願いは、願いの成就という人智をこえたものに対し、成就を願って願われる行為ということができるだろうか。それはすべて「もの」でなく「こと」、事物でなく事態にかかわることだろう。それゆえにそれは「願い」なのであって、要求や欲求と区別されるのではないか。そこに「成就」という「跳躍」が入り込むことで、それを何か、いわば特別なものにしているのではないか。
たとえばその「成就」とはどうしてそのように想定され、とらえられうるのか。もしくは、「成就」が認められたり認められなかったりするのか。
もしかして、「私」だけでは願うという行為は成立しないのではないのか。