ここには私の席はない

「49の椅子」(とがびプロジェクト)

数ヶ月前から取り組んでいる椅子(これ)。先週長野の中学校でのアート展「とがびプロジェクト」でもいくつか椅子を使った作品のアイデアをためしてみたのだが、その中で、紙製の椅子を無数に天井から同じ高さにさげるというのを、もっと広くて、天井が高くて、しかも壁が仕切られた空間、例えば10メートル四方に4メートルくらいの高さが白い壁で仕切られているようなところでやってみたいと考えている。椅子の数は少なくとも1000。入口は狭く、できれば入口から数メートル歩いてからふっと目の前に無数の白い椅子が広がるように。そしてタイトルもしくは制作意図としては、「ここには私の席はない」。しかしこれを誤解されずに提示することは可能だろうか。
無数の椅子を前に、「ここには私の席はない」と言えば、それは(一般的な)孤独や寂寥感と受けとられるのがおちだろう。しかし私はそういうものを表現したいと思わない(もしかしたら正直なところ、そうした孤独や何かを感じたことがないのかもしれない)。そうではなくて、私は世界に無数にある私のひとりなどではない、ということを言いたい。
けれどそれもそう発話したとたん、だからひとりひとりが尊くかけがえのない存在なのだみたいな感じで流されてしまうような気がする。しかしそれは結局無数のひとりひとりにこの私を還元しようとするもので、そうすることなく、この私の比べようのなさを表現したいと思うのだけれど、それはどうだろう、可能なのだろうか。
おそらくこうして言葉によって意図するところを述べようとするから、そのたびに「言葉の牢獄」にでも引き込まれそうになるのだろうか。ではいわゆる言葉の規則の上でなければ、たとえばアートでなら、そこへいたる何かが表現できたり、共有できないはずのそれを共有する契機になったりもするのだろうか。そういう方向性でもって、椅子を使ったアート・ワークを考えていこうと思う。