「アート・フェスティバル」

のこどもたちが毎年この時期になると「おまつりがあるんだぁ♪」といってたいへんうれしそうにそのようすを話す(「かたぬき」についてあつく語る子どもやラムネのみ競争でもらった商品の大きな風船を塾にもってきた子どもも)大日如来のおまつりのチラシがポストに入っていて、ふと思いついて塾の後、9時半頃に行ってみる。もう「しみる演歌」などを聞かせたはずの特設ステージなどはとっくに終わっていて、子どもたちの歓声が飛び交ったかもしれない射的や金魚すくいや宝くじなどの露店も店じまいをはじめている中、おまつりの残り香のようなものをながめながら、ラムネを飲んだりお好み焼きを食べたりした。
しかしこの、何ともそれらしい露店の風情。まつりらしさ。それはどれも縁日という文法の中に位置するものであり、「え、こんな店あり?」などというものはない。だからたとえばこうしたあたかも縁日の露店そっくりのストリートを、それらしい場所に突如として出現させれば、通りがかりの人はそうした文法にそってそれを理解し、近づいてくるだろう。しかしそれが似て非なるもの、たとえば「アート・フェスティバル」だったりしたら、どうだろう。射的はあたかも射的らしいのだが、なぜか銃からは絵具やシャボン玉が出てしまい、的にポロックばりの絵が描き出されていったり、宝くじは宝くじらしいのに「雲を数えなさい」とかへんてこな指示が書かれていて、「何が当たるの?」と聞いてもにやにやするだけだったり。
まつりらしさの閉塞性と、脱文法的なアートの閉鎖性を、まつりとアートのもつ生命力でもって消し去ること。