確実性の問題

ところで、この本はいろいろおもしろい切り口もあってなるほど、と思うところもある一方、何とも首をかしげたくなる言説というのだろうか、「普通」の見方を反転させようとするある種トリッキーな感じの説明が多く見られるような気がする。特に次のくだりを読んで以降は、まともに議論に耳をかたむける気がかなりそがれてしまった。
「例えば、自分は自分だというアイデンティティを、我々はどのように理解しているだろうか。対人関係や、その日の気分、年齢や境遇など、日々刻々我々は同じでいることがない。「自分」のアイデンティティとは、様々に移り変るたくさんの自分のあいだの緩やかな最大公約数として存在するものなのである。逆から言えば、あなたがあなた自身でなくなるためには、あなたと完全に同一の分身を一人横に添わせるだけでよい。まったく同じもののあいだには、いかなる類似も公約数も生じ得ないから、あなたのアイデンティティはあっけなく消滅してしまう。(…)こうして、私とまったく同じコピー人間が数万人いたら、私が私である、という同一性は雲散霧消してしまう」(前掲書p40〜42)
こういうとき、どう言ったらいいのかわからないのだが、とりあえず、「この私」が「この私」以外のなにものではないという確信は疑いようがないものだとしか私には言えない。別に私と何からなにまで同じ人が何人いようと、「この私」は「この私」だ、とわかるのは「この私」についてのみであるし、それは突然、私が別人になってしまい、それまでの私でない人間に私がなってしまったとしても、「この私」が「この私」であることの確信はゆらぎようがない。また、「この私」がふたりになったとしても、それは同じことだろうと思う。私が私であるという同一性が雲散霧消してしまう、などということを本気で言えてしまうのは、どうしてなのだろう。というか、そんなことを私は想像することもできない。これはあくまで「あなた」について言えること、あるいはその別の表現である「自分」とか一般的な「私」について言ってみることのできること(私以外の人間が、ときどきちがう人間と入れかわったり、あるいは私が赤いと思っているものを実は青いと呼んでいたりしても、私にとっての世界はなにもかわらない)であって、何かに確実性とか根拠とかいったものがあるとしたら、まさにそれは「この私」は「この私」だ、ということではないかと思う。私はその確実性とか根拠について、とても興味がある。というか、それ以外のことはどうでもいいことのようにすら思える。ものなんてどうにでも言えるとか、価値はどうにでもつくりうるとか、そういったたわごとはもういい。