私が何かをアートと呼ぶとき

akadowaki2005-07-09

あき時間に小1時間ほど、メディアテークの自分の展示を見ながら過ごした。「屋内でやってみてどうですか」とか聞かれたりもしたが、搬入やら審査やらで、なかなか今度の展示がどんなものなのか、ゆっくり見てみる時間もなかったので。
これまで主に屋外で、その場によりそうようなかたちで大規模にやってきたものを、今回、8メートル×8メートル×4メートルという、区切られ、ほとんど隔絶された空間の中に展示してみたわけだけれど、やはりどうこういってもその場所性というべきものが、この作品には決定的な役割を果たしているように感じる。
たとえば今回の展示では、屋外のような気象条件(光や風、天気や湿度)の変化がいっさい、あるいはほとんどないので、屋外では風にゆれる軽くやわらかな毛糸が、まるで凍りついた一瞬の時間の中にいるように見える。
重力のもつ緊張感、その力がつくる弧の美しさ。それは単なるカーブではなく、方向性――上方、下方、あるいはバラバラとありとあらゆるベクトル――をもった力である。しかしかと思えば見る場所によってはその弧の重なり、下円の弧のもつ一体としての重量感が、降ってくるようなリズムを刻んでいる。静止した無音状態の中に、目で聴く動き。輝く色。おぼろな影。空間、重なり、方向性、推進力、奇跡、航跡。
「これらがはりめぐらされる前、そして取り外された後のこの場所、時間を想像してみよ。」
時間がとまってしまった世界があったとしたら、それはこんな風に美しく、ある意味退屈であるにちがいない。
毛糸たちは、あたかももの言わぬものたちであるかのように、どこかへと向かうものたちのようにそこにあって、私はそれをただ外からながめている。顔が、こちらを向いていない。そしてそれは、私の顔だ。
1時間ほどいる間に、やっと十人ほどの人が展示の前を通り過ぎたが、やはり中には「これが作品なの?」と素直な感想を口にしている人もいた。「染めからやってるとか?」ともうひとりが言う。たぶん、アート作品にはある程度の認知された技術やそれに似たものが求められるのだろう。というか、それを「アート」や「作品」と呼んできたのにちがいない。何らかのそうした外在的な規則や根拠がなければ、それを名指すことには意味がないだろう。では、これまでそう呼ばれてこなかったことがらや、あり方をその名でとらえ直すという行為を「アート」と呼ぼうとするなら、そこにはどんな規則や根拠があるのだろう。私にしかわからない命名法など、無意味なのではないか。私がそうするとき、そこにはどんなかたちの論理がはたらいているのだろう。もしそれを明らかにすることができるなら、私は私の「アート」を、もっとはっきりひとに示すことができるのではないか。