延長と思惟

虹についてすこし調べているうちに、光について読むことになり、それとなく知ってはいたものの、「本当に」目に見えるものがすべて粒子であり波動である光か光の反射であるとか言われて、改めて自転車をこいだりしながらあたりのものをながめていると、このように見えているあの電柱が、ときどきちがう風に見えたりするんじゃないだろうとか、本当にずっと同じように見えるなんてなんてうまくできているんだろうとか、やっぱり何かおかしいんじゃないかとか思えてくる。
おそらくはこうしたことは本末転倒というか、言葉で言えば、なぜこれはこういう名前なんだろう、ではなくって、これをこう名づけたからこれはこういう名前なんだよ、といったたぐいのことがらなんだろうけれど、それは子どもの頃に、なぜ私はここにいるんだろうとか、なぜ私はこの私なんだろうとか、この私のままずっと大きくなるんだろうかとか思ったときの感じに似ている。
最近読み始めたばかりで何なのだけれど、スピノザは自然=神の属性は無限にあるのだけれど、人間が認識できるのは思惟と延長だけなのだという。とりあえず私は思惟は言葉によってアタマの中で考えること、延長は物体の物理的な存在(とそれについての認識)のことかと考え、上のように目で見たものを延長の認識、それをこうして言葉になおしていることを思惟ととらえ、ちょっと思いついたことを書いておこう。
たとえば、雨にぬれた道路の上のはげかかった横断歩道などが目に入るとき、私はそれを光の反射として目で受け取り、それと認識する。ところがそれを言葉で「雨にぬれた道路の上のはげかかった横断歩道」とか説明しても、あまりに抜け落ちていることが多すぎてあぜんとするほどである。そこで私はそれを絵で表現したりするわけで、いかにその感じを再現するかとか、あるいは「実際には」そういうものではなかったのかもしれないのだけれど、私が考えるそれらしさを喚起するであろうさまざまな処理をほどこしたりして、それを絵として提示する。もちろんそれは私が最初に目にしたり、感動したりしたそれではなくなっているかもしれないのだけれど、とりあえずそうやってそれを、やはり目に見えるものにする。
ところがそれについて、それを見た人が言葉で語ろうとするとしたらどうだろう。何かすごく無意味なことをやっているような気が私にはする。つまりそれは延長という属性の認識の世界の話なので、スピノザが定義するとおり、言葉によっては限定されないのではないか。別にそれが悪いと言っているのではなく、別のレベル、つまり思惟の世界の話として語る分には問題ないわけだけれど、おそらく画家(特に記号としてモチーフを用いるのではなく、それそのものを描くためにそれを描こうとしている画家)は、そういうものとして語られるために絵を制作しているのではないと思う。
逆に私が今、主にやっている現代アート作品は、ほとんど思惟の世界のものである。モノとして見られてもほとんど意味がない(むろん、まったくないわけではない。それはそうしたものとしても美しいものであることを私は常に望んでいる)。それは言葉で語られ、検討され、増幅され、引用され、展開していくものだと思う。プランを示すことができるし、実際、プランが作品そのものであったり、その段階で人に通じるものである必要すらあるように思う。
と、このように考えてみてはどうだろう。もちろん、はっきりと分けられるふたつのものとか、対立するふたつのものということではなく、いく分比喩的な意味もこめて。