鈴木島男、「エンジン」、韓国ドラマ

椅子

最近見ているドラマは木曜10時の鈴木島男(「恋に落ちたら」というタイトルはあまりに意味不明)と月曜9時の「エンジン」。韓国ドラマに慣れてしまったせいか(やっと今週最終回の「愛の群像」は44話もの)、あまりにストーリー展開がはやく、「展開」というと聞こえがいいけど、まるで「予告」だけ見ているような感じで、おそらく韓国ドラマなら鈴木島男の平社員時代だけで20話くらいはいくだろうし、「エンジン」なら風の丘ホームのこどもひとりひとりについて順繰りに2〜3回はエピソードをやってから(つまり30話目くらいでやっと)廃園の話になるのではないかと思う。
確かにエピソードというか、日常の積み重ねなんて同じようなものだし、分かりきったお約束ごとなわけだから、ある一部でもってそれを代表させてしまい、あらすじだけを追うような物語も直截でいいのだけれど、そして何より2時間ものの映画に比べればまだ長いという意見もあるだろうし、その2時間映画ですら、数秒の予告の方がおもしろかったりするわけだけれど、あの圧倒的な重量感をもった韓国ドラマのうむを言わせぬエピソードの積み重ねには、ドラマというジャンルを超えた何か、たとえばリアリティのようなを感じる。それはたとえばできあがったアート作品を数秒で見て歩くのと、それがどうやってできていくのかをたとえば年単位で追っていくような関わり方とのちがいのようなもので、早送りできないビデオテープのようなリアリティというのだろうか、そうした絶対的な時間の重力のようなものを感じる瞬間でもある。