誤り得なさ

1、2、3、4…という数え方を教えれば、突然途中から、たとえば100から先を102、104、106…などという風には言わない、ということが半ば安心感とともに語られたりするけれど、おそらくはそこでのポイントは、それがなぜ確実にそうなのか、ということにあって、つまり102、104、106…という人がいれば、それはその人が規則を間違ったのであって、規則には問題がない、ということを言いたいのだと思う。
別の例では、3つパンが家にあって、2つ買って来たら、家には今5つのパンがあるはず。もし4つしかなかったら、もう1つどこかにあるか、食べてしまったか、等々といったふうにわれわれは考えるはずで、もしかしたら4つということもありうるのではないかとは考えない、と言われる。それ以上の懐疑は不要だということなのだが、私は現実にそういうこと、つまり現実に4つになるということではなくて、4つということもありうると、誤ってでなく考えたり、主張されたりすることが、けっこうあるような気がする。もっともそれは単なる誤りとしか認定されないから、おそらくはそう考えたり主張したりしていた本人も、いつしか誤りとしてしかそれをとらえなくなるのかもしれないが。
そしてそういう「誤り」をも含めた誤り得なさが、「われ思うゆえにわれあり」なのであって、そうした「誤り」の存在に対する感受性がない人にとっては、そうした言明はばかばかしいほどに不必要なことなのだろうと思う。