言語の限界とか何とか

川を流れてゆく椅子

以前、一生懸命絵を描くために絵を描いていたとき、個展を見に来る人が、なぜ絵をただそのようなものとして見ようとせずに、あれこれ言葉にしてそれを表わそうとしたり、私にその手助けを求めてきたりするのだろうとものすごく疑問に思っていた。疑問に思っていたというよりも、正直な話、嫌悪さえおぼえ、どうしてなのだろうというより、どうしたらそれをやめさせられるだろうと本気であれこれ考えていたことがあった。今でもそのときの気分を私はありありと思い出すことができるし、それが間違っていたとかも思わない。ただ、そういうレベルで語るようなものではないような気がする。
おそらく私はそうしたとき、絵を自然物か何かのようにとらえているのだと思う。つまり、私が描く風景や何かと同じように、ただそうあるもの、人間の善悪とか規則とかを超えて、存在するということのみが意味をもつようなものとして。
むろんそんなものとしての「絵画」などは存在しない。そういうものがもしあったとしたら、それは絵画とは呼ばれないだろう。絵画が私の手、つまりは人の手によるものである以上、それがいわゆる言葉によるものではなくとも、絵画表現という言語の上で動いているのであり、もし仮に私が天才と呼ばれる人々のように、まったく新たな芸術表現をなしえたとしても、それがなされた瞬間、つまり芸術として受け取られた瞬間からそれはそのような言語(あるいはシステムといってもいいが)として組織され、その上で動きはじめるのであって、それがそうしたものの外に在りつづけることはできない。もしそうしたものが在るとしたら、それはつまり究極のオリジナリティであるが、おそらく誰にも理解できないだろう。それが表現であることすら誰にもわからないと思う。
ところで私はそうしたものを「無い」とは言えないと思う。それはただ「在る」としか言えないけれど。そしてその「在る」というのも、それが言語(あるいはこの世界のシステム、論理、何と言ってもいいと思うが)の上では動いていないのだから、厳密に言えば「在る」を意味してはいないのだが。そしてそうした存在、つまりナマの存在とでもいうようなそれは、結局、「在る」とか「無い」などということはどうでもいいところで動いていることがらなのだと思う。つまりそれは、いわゆる私的なもの、人の言を借りれば私的言語とでも言うべきもので、それを在るとか無いとか言うこと自体がナンセンスなものだろう。
話がそれたが、私は絵をただそれを描くためにのみ描いていた頃、おそらくそうしたことを考えていたのだと思う。うまく言葉にすることもできず、自分が何かを考えていると言えるのかすらあやうい感じで、とりあえずあれこれ言葉にして書いてみたり、口に出してみたりすると、あんまりそんな風に考えない方がいいとか、私たちは豊かで慈しみ深い世界に生きているのだから、意味を求めるのは大切なことだみたいな道徳的な話とか、機能主義へいたる美術史の話とか、とりあえず的はずれなのはいたしかたのないことであり、わたしもしょっちゅうすることなのでいいとして、私の中にあるそのどうしても感じてしまう違和感のようなものを、そんなの問題でも何でもないみたいな感じで懸命に鎮火しようとする方がけっこういるように感じたのだが、どうなのだろう。もしかしたら私もひとから同じようなことを聞いたら同じようにふるまうのかもしれない。というか現にやっているのかもしれない。たとえば「なぜ勉強しなきゃいけないのか」とか「この勉強、何の役に立つのか」という子どもに対して。
ところで、いわゆる現代アート作品をつくるようになって、私の作品は言語で満たされるようになった。どんどん言葉が流れ込み、その流れをたどることで新たな方向性を探し出し、もうそうしたもの無しではまったく先へ進めないだろう。
でも外から見ればどうなのだろう。ひとにはわからない何か、みたいなものを想定してつくっていた絵画が誰にもわかるものとして受け取られ、みんなにわかるような共通の言語に沿ってつくっているつもりの毛糸その他の作品が、何かわけのわからないものとして見られているとかだったら、すごく笑える状況なのだけれど、実際けっこうそうなのかもしれない。