われ思う

境内アート苗市にて

「われ思う。(ゆえに)われ在り」みたいな言い方について、明晰な自我への信仰とか、無意識的なものの領域が「発見」される以前の近代的な個人という妄想とか、あるいはそこから流れて、物語的なものに対する説明的なもの、ひとびとの知恵や慣習といった豊かな日常を根こそぎ切り捨てていく近代主義の根源、あまりに単純でバカみたいな二元論を言い立てるアタマの中だけの空論、みたいな批判が口々にとなえられて今日に伝わっているような感じが私はするのだけれど、何というかそういう言い方をすればそうなる、というだけの話で、結局そういうことを言っているのは誰? という話なのではないかと思う。
私が私をこの私であるとわかる。別に門脇という名前の人間でなかったとしても、それは成立する。というか、してしまう。もしそうでなかったら、世界は成立しようもない。そういう「われ」、それをとりあえずは確実性の根拠にしてみようという真摯な姿勢にしか、逆に私にはこの言葉は聞こえてこない。それを真摯な姿勢というのは、結局のところあなたはなぜそんなことが言えるのか、ということについては、この私がそう思うからだ、としか言いようがないのではないかと思うからだ。そしてその「私がそう思う」は何も独善的だったり、独我論的だったりする「私の語りえない世界」などではなく、その非対称的な存在としての私が、それでもやはりそう自覚するためにはあなたの、あるいは彼らの、こう言ってよければたとえば神の存在が絶対的に必要であったということに支えられて成立している確実性なのではないか(だから神の存在証明も循環を含んでしまうのでは)。
逆に言えば、無意識とか物語とかいろいろなものをあげてきて、あえて意識や説明や主観性みたいなものを顕在化させようとするのは、どこか捏造めいていて、なんでわざわざそんなことを言わなきゃならないのだろうと思う。この私は十分ふしぎだし、ものがたりに満ち満ちていて、明快さや単純さとは無縁のものだ。子どもの頃に「私はなぜ生まれてきたんだろう」「私はなぜ私なんだろう」と思わない人なんていないと思うし、そんなことはあまりに当たり前のことだ。それを逆向きの表現として表わしたとても端的な言葉を、どうしてそんなにちがうものだと言い立てたり、似てもいないものとおんなじだと言ったりするのだろう。それをどこまでも明晰に考えていこう、語りつづけていこうという態度に対して、どうして何かよくわからない「私の語り得ない世界」や詩や物語やらを持ち出してきて、そういう真摯な姿勢をあいまいなものにしておこうとするのだろう。私の言う神は全然神秘的ではないが、そういう話にはすごくその「神秘性」があるように思う。