エリア・スレイマン『D.I.』

D.I. [DVD]
昨日、エリア・スレイマン監督・脚本『D.I.』(2002年、パレスチナ・フランス、94分)を観た。とてもよかった。
観ている間は本当に何が何だかわからないシーンが多かったのだが、そのように、説明的でないのがとてもよかったと思う。よくわからない、わからなかったなぁとその日一日、映画は私の心を占めていた。
今日、会場で買った「公式ガイドブック」を読んで、作品についてのだいたいがどういうことか「説明」がつくようになった。それはもちろん私が強く望んだことなわけだけれど、わからないという強力なあの感じが背景にひいていくようで、なんとも悲しい感じもする。
ところで、「公式ガイドブック」は確かに基本的な事柄についての説明をしてくれるという点や、監督へのインタビューなどが読めるという点で有益だと思うのだけれど、いわゆる「パレスチナ」というものが表象してしまうことがらとこの映画との「整合性」のようなものを説明しようとしてしまうからなのかどうなのか、とにかくこの映画のもつ笑い、コメディとしての側面ばかりがクローズ・アップされ、そうした過酷な状況をユーモアによって緩和・抵抗しようという作品であるといった説明ばかり繰り返され、かえってそうなると本当にそうなのだろうかと、私のような人間には思えてくる。
いたってまじめな人に対して、「おもしろい人」(おかしな人との中間地点みたいなものとして)といったことを言う人がいるけれど(そして私もよくそう言われる人間のように自分を感じているのだけれど)、そうした態度はその人を、あるいは作品ならそれを、どう受け取っていいのかわからずに態度を留保するときに見られるもののように思えてしまうことが多い。
この作品に関しても、ガイドブックで上のような見解を読んだせいでより強くそう感じる点はあるにせよ、私はあまりこれを笑える作品であるとは思えなかった(それに私に限らず、実際、会場内ではほとんど笑い声はあがらなかった)。ガイドブックでは、最初の、父が車の中から会う人会う人に、聞こえないことをいいことに「ヒモ」「オカマ」「ハゲチン」という言葉を投げかけるシーンや、果物の種を車から投げるとそれが戦車にあたって爆発するシーン、女性のセックス・アピールで検問所が崩壊したり、イスラエルの特殊部隊やアパッチ攻撃ヘリ相手にほとんど素手パレスチナ忍者が勝利してしまうシーンなどを笑いのポイントとしてあげているけれど(50ほど笑いのポイントはあるらしい)、私には笑えるポイントはほとんど皆無だった。それはもしかしたら私にユーモアのセンスが欠けているためかもしれないのだけれど(そしてそれは大いにあることだ)、大きな理由は、映画で語られていることが、私自身の日常生活とそう大きく変わるところのないものに思えたからだと思う。
私もよく車に乗っていると、いいかげんな運転をしている(と私には思える)人には口汚い言葉を投げかけるし、車に乗っていなくとも、自転車に乗っていて、あるいはテレビに向かって、あるいは心の中で、しょっちゅう「何やってるんだ?」「何言ってんの?」「アタマ大丈夫かな、この人」といったたぐいの言葉を投げつけるし、(私にとって)いいかげんなことをされたり、嫌な目にあったり、いらいらしたりすると、戦車を爆発させたり、検問所を崩壊させたり、忍者になって手裏剣を投げたりするのと同じようにありとあらゆる想像上の手段で自分を救う方法を考えたりもする(もちろん救うのは自分だけでなく、誰も肉を食べない世界についての空想や、動物が苦手であることを大罪ででもあるかのように告白する時代が来ることについての妄想などもよく行う)。だから私には全然笑えない。笑えないどころか、よくわかるよとか、大丈夫? という接し方しかできそうにない。
それともこういうことなのだろうか。パレスチナの置かれたあまりに悲惨で暴力的で理不尽な境遇の前では、どんな人も自分の「ちっぽけな」不幸や不運などを、それとして語ることも許されないとか。同じように私も感じるなど、おこがましくて口にすることもはばかられるとか。だからといってそれを「コメディ」として理解し、解釈し、受容することで、私の日常をこえたところにあるなにものかにしてしまうことは、おそらくはその意図に反して、作品を無害化することにつながるのではないか。
「ぼくが映画を作るのは、よりよいポテンシャルの現実を作るため」という言葉は、しかしなんと力強く、辛抱強い前向きの態度だろう。