わかりえなさ

「この絵はどこを描いたのか」とか「この絵は何を意味しているのか」といった質問をするのは、その絵を世界の中に位置づけ、相対化し、意味と目的を与えるためのように私には思える。ではなぜそうするのかと言えば、それを「見える」ようにするためである。いったい何を描いたのかまったくわからない絵があったとしても、「何を描いたのか」あるいは「どうして描いたのか」といった質問を繰り出すことで、ある一定の回答を引き出し――たとえば、情念を描いたのだとか、何も意図せずに筆の向くままに描いたのだ、といった言葉ですらそうしたものの「証拠」となるだろう――それによって何かを「見る」ことが可能になる(ことがある)。
しかしおそらくは、そうしたもの、たとえばアート作品をつくろうとしたときに私の中にあったものは、そうした世界への位置づけ、相対化、言語化をこばみたいという、そのことだったのだろうと思う。私の眼に入って来た感動的な風景、私にしかわからない感覚、そうしたものを画面に定着させ、それを見る者に伝えたい、などといった思いなどではまったくなく、ほかでもない「この私」という存在が現に在る、在ってしまうという一種の奇跡について、別にそれが素晴らしいとか、特別だというのではなく、ただただそのことを表わすことも、位置づけることも、相対化することもできないその奇妙な感覚、違和感、おかしみを表わす表現を、つくりつづけること、つまりはできたものから常に遠ざかっていこうとする継続的な営みや、「これは何なのか」という素朴な質問のもつあっけらかんとしたあつかましさと力強さを、どうにかしてそのようなものとしてわからせたい、たとえば封じ込めたいという欲求、努力によって手に入れんとしていたのだと思う。
そんな風には語れないものがある。そのことを確認したい。そこからすべてが始まったのであり、今あなたがあなたの言葉の中に手なづけようとしているその方法でもって確かに世界は世界たりうるわけだけれど、それは結果であって世界がまずあったから私があるんじゃないという確信のようなもの、しかしちっとも確信めいていないもの、それをわかってくれといい、しかしわかってもらってはもともこもないそれ。わかりえなさ。それを表現したいと思っていたのだと思う。