とがびの拓いたもの

akadowaki2009-06-04

3年前に書いた原稿が「長野県信濃美術館紀要第一号」に掲載されて届きました。以下、ほぼ全文。
************
「とがび」の拓いたもの 〜一参加作家から見た「とがびプロジェクト」

門脇 篤

私は、2004年から始まったアート・プロジェクト「戸倉上山田びじゅつ中学校(とがびプロジェクト)」(以下、「とがび」と略記)に、06年の第3回まで、毎年、アーティストとして参加した他、05年の第2回からは運営面でもいくばくかの関わりをもってこのプロジェクトと歩んで来ました。そこで、ここでは、私という一参加アーティストから見た「とがび」とその意義を描いてみたいと思います。

「とがび」との出会い

私が「とがび」に参加するきっかけとなったのは、その頃、出展を目前にしていた仙台でのアート・プロジェクト「TANABATA.org Art Project2004」(プランナー:村上タカシ)のメーリングリストに流れて来た、ドイツ在住のアーティスト・増山士郎さんからの一通のメールでした――長野の美術の先生が、中学校でおもしろいことをしようとしている。参加できる人は中平千尋教諭へ連絡してほしい。

当時、地元・仙台や東京などで、個展を開いたりしていたものの、そうしたことに行き詰まりを感じ、2003年から2度にわたって行われた、商店街を舞台とした上述のアート・プロジェクト「TANABATA.org」などに参加し、いわゆる既存のアート空間でない場所での発表に興味を覚え、同様の機会をさがしていた私は、すぐさまこれに参加したいと考え、中平先生に連絡をとり、この年10月に行われた最初の「とがび」に、それがどういうものであるかもわからず出展しました。

はじめそれは、ただ中学生が「キッズ学芸員」なる名前で参加作家の展示作業を手伝い、美術作品、特に現代アート作品に触れることの少ない地方の中学生にこれを見せるというものだと認識していました。「TANABATA.org」でも、私は美術系大学に通う学生の助けを得て作品展開していましたし、それは学生にとって、貴重なアートの現場体験になっていました。

私は毛糸を使ったインスタレーションを制作しているので、三階建ての校舎から毛糸を投げ、中学校に「毛糸の虹」をかけるというプランをつくり、企画書を送りました。これについては特にはキッズ学芸員とやりとりすることなく準備日となり、当日はいっしょに準備作業を行ったものの、担当してくれた4人の生徒たちは全員運動部だったので、翌日から2日間の日程で始まる会期中はずっと試合で来れないと聞かされました。

そこで私は、これは中学校というオルタナティヴな空間に作品を展示するところに意義がある企画なのだろうと考え、温泉地として知られる戸倉上山田のお湯を3日間ゆっくり堪能して帰り、担当してくれた中学生とはその後、お礼状や年賀状のやり取りなどはしたものの、それ以上の関わりもありませんでした。

その後、「とがび」を全面的にバックアップしている長野県信濃美術館において、その「まとめ展」が開催され、私も呼ばれて同美術館に毛糸のインスタレーションを設置したり、生徒たちが出席したシンポジウムにも出席したりしましたが、「これはたいへん先進的な取り組みなのです」という学芸員さんの「とがび」についての総括には、それほどピンとこないまま、その年度は過ぎていきました。

ところが2005年、第2回への出展依頼がキッズ学芸員から届いた時、「とがび」について自分が大きな勘違いをしていたことに気づきました。そこには前年とはちがうキッズ学芸員の名前で、彼女たちに私が選ばれたこと、毛糸に感動したのでこんなことをやってほしいという企画の提案などが、図解入りでつづられていました。

やがて、前年はともに出展した多くのアーティストが選ばれることなく姿を消し、逆に天明屋尚や326(ナカムラミツル)をはじめとしたアーティストたちに、キッズ学芸員たちが体当たりで交渉し、出展にこぎつけていることがわかってきました。

ここに至って私は、はじめて「キッズ学芸員」というかわいらしいネーミングの裏に隠された真の意味に震撼し、「とがび」のもつ革命的な試みに触れる思いでした。それは生徒たちがキュレイターとなって、アーティストと補完的という意味で対等の位置に立ち、作品を見せる/見せられるという固定的な位置関係を突き崩していく、まさに野心的な試みだったのです。単に中学校という物理的な意味でオルタナティヴな空間を借りて現代アート作品を展示するといったものなどではなく、アーティストとアート作品、観客との関係性を根底から変えていこうとする、真にオルタナティヴな空間を創り出す営みだったのです。

私はそうしたことに感動を覚えるとともに、「とがび」のこうした試みが正しく世に問われ、理解されていかねばならないと切に思うようになりました。

真の「とがび」を理解してもらうために

そこで私が中平先生に提案したのが、まずはインターネットを通じた広報活動です。ホームページを立ち上げ、前年第1回の出展作家のプロフィールや出展作品、そこで行われたシンポジウムや長野県信濃美術館での「まとめ展」などの記録を閲覧できるようにするとともに、折から流行し始めていたブログを使い、こまめに「とがび」情報を流し始めました。

また、地域への浸透を図りました。前年、毛糸を使ったインスタレーションを披露した私は、もっとこの戸倉上山田という地で制作するのにふさわしいテーマはないだろうかと考えました。中平先生もこの点に関しては、「とがび」開始時より地域をテーマにしたいとおっしゃっており、私自身も単にアトリエで制作したものを展示するために持ってくるような作品ではなく、場所性を読み込み、その場で展示することに説得力やリアリティのある制作を望んでいたので、方向性として非常に合致していたわけです。

あれこれ考えた末、戸倉上山田は歴史ある温泉地であることから、温泉街を舞台にした仮想のアート・プロジェクト「戸倉上山田アート温泉」を企画する、というのをこの年の出展作品として考えました。キッズ学芸員には現地調査員として、戸倉上山田温泉街の旅館や商店など、さまざまな場所を写真やインタビューによって調査してもらうとともに、その調査に基づいて、私の知り合いのアーティストには、戸倉上山田に設置することを想定した作品プランをつくってもらいました。

モノとしての作品ではなく、企画することが作品というわかりにくいものでしたが、この年担当してくれた3人のキッズ学芸員は、よく私の意図を理解して動いてくれました。またこの時、キッズ学芸員による旅館や飲食店などでの調査がスムーズにいくように取り計らってくれたのが、地元・戸倉上山田温泉観光協会(現千曲市観光協会)で、これを通して、父兄とは別のチャンネルから「とがび」の存在が地元に知られ、観光協会会員への広報や協力依頼を行ってもらうとともに、観光協会主催の「そばまつり」時には、新しくできた協会施設で「とがび」のアンコール展示を行うという話にまで発展しました。

さらに、戸倉上山田をめぐるアートシーンについても、上山田文化会館や池田満寿夫美術館など地元文化施設や、かつてこの地に工房をもって制作を行っていた信州大の木村仁先生やその教え子で今は小布施を中心に活動するアーティストのなかむらじんさん、版画家で戸倉上山田とハンガリーの芸術による国際交流のきっかけをつくった若林文夫さんなど、地元アート関係者の協力を得て調査を行いました。その結果、温泉地は歴史的に外からの文化を受け入れる窓口としての役割を果たしていたことが浮き彫りになるとともに、電話やメール以外にも実際に足を運んでお話を聞いたりしていった経緯から、地元文化施設やアート関係者との間に直接のコネクションができ、「とがび」が単なる「学校行事」におさまるものではないということも、徐々に伝わっていったように思います。

しかし、「とがび」がすぐれて先進的な取り組みでありながら、一般にその真価はなかなか理解されているようには思えませんでした。単なる学校の文化祭の延長のようなものではないか、あるいは、確かに名のある作家なども呼んでそれなりのクオリティはもっていても、単に学校という空間を使った展覧会を行っているだけではないか、という一面的なとらえられ方は、一般の方のみならず、参加作家の中にも根強くあったと思います。

そうした状況が一気に変わり始めたのは、2005年、第2回の「とがび」終了後、中平先生と話し合って応募することにした「アサヒ・アート・フェスティバル(AAF)」に、「とがび」が全国プログラムのひとつとして選ばれるに至ってのことと思います。

AAFへの参加と「とがび」の意義

AAFは、アサヒビール芸術文化財団からの助成により、実行委員会形式で毎年立ち上げられるアート・フェスティバルで、北は北海道から南は沖縄まで、全国公募で選ばれた数十のアート企画を、資金・広報面で支援するとともに、それらのネットワークを通じて、他企画との連携企画の開催や、アーティストやスタッフのやり取りを行ったり、同じ悩みを抱えている団体同士が問題解決に協調したりするもので、「まちでアートを考える」というそのテーマからもわかる通り、既存の展覧会をやろうというものではなく、逆にあまりに斬新すぎてこれからどうしたらいいのかわからない、けれどそれがやるに値するものであることは確信しているという、後から考えれば「とがび」のような企画ばかりが全国から集まってきた場であり、ここに「とがび」が選ばれたのも当然のなりゆきだったのだろうと思います。

しかし、大企業であるアサヒビールが助成しているということが、ある種のブランドと取り違えられ、AAF自身も「とがび」同様、その真価は十分に理解されているとは言えない状況にあります。実際、実行委員の中心的存在であるP3 art and environmentの芹沢高志さんは、自分たちがAAFでやろうと考えたことは、はじめアート関係者にはほとんど理解してもらえず、結局、アートとかかわりのない人々の理解に支えられてここまでやってきたと言っています。

AAFに選ばれた直後、「AAFの全国プログラムに選ばれたとがび」に参加することがアーティストとしての重要なキャリアになるかのように勘違いした参加作家によって、「とがび」が深刻な状況に置かれたことがありました。中平先生もその件でたいへん悩まれ、AAFへの参加を辞退しようという話にまでなりました。それを押しとどめてくれたのは、芹沢さんの先のような信念と誠意ある説得でした――AAFはアートを自己目的としているような企画には興味はないし、そういう人たちとやりたいのではない、アートを通じて人と人とが感動できるような場をつくることに興味がある、そういう人が集まる場であって、極端な話、自分はそれがアートでなくてもいいとすら思っている、「とがび」のことは以前から選考委員の耳に入っており、今回応募してもらえてたいへんうれしい、ぜひいっしょにやりましょう。

しかし今考えると、ある程度の「揺さぶり」があったからこそ、「とがび」の意義はより明確になったのではと思います。それは第一に教育であり、誤解を恐れずに言えば、美術、アートは二義的なものなのです。アーティストがその作品を展示するために中学校を使うのでは決してなく、アーティストという異分子が中学校という教育の中へ入って来ること、その一点にこそ、かけがえのないほどの重要性があるのだと思います。

中学校という場においては、そこで完結する「教育なるもの」がありうるなどという発想は幻想でしかないこと、外部のさまざまな人間や地域と交わり、まったく効率的とは言い難いテーマや学びの中へ子どもたちとともに漕ぎ出して行く、それこそが単なる受験指導にとどまらない、真に教育の名に値する営みであることが明らかになるとともに、アーティストにとっても、自己の興味や感性という閉ざされた中で「作品なるもの」が完結するなどという発想は幻想でしかないこと、受け手、他者との関係性の中でしか表現活動などというものは成立しえないこと、そのためにはスキルやテクニックといった表層的な「表現」や、それがアートであるか否かといった皮相な議論などを終わりにして、それが本当に人に感動を与えることができるのだろうかと真摯に問い直していく姿勢こそが、真に表現の名に値する営みであること――「とがび」はそうしたことを広く教育の名のもとに社会へと投げかけた、非常に強い意志のようなものではなかったかと思います。それは普遍的なメッセージをもった実践であり、単なる中学校の教育という意味での教育におさまることなく、私たちが終生学びつづけるべき何ものかを含んだ、人間として純粋でかけがえのない部分についての探究だったのではないかと思います。

実際、「どうやったら中学校でこんなことができるのか」といった驚きの声や、「これはほとんど奇跡のような活動だ」といった感想を何度も耳にしましたが、それは名のある作家の作品が見られるとか、多くの作家作品にふれられるとか、中学生の活動や表現が技術的にどうとかいった、単なる表面的な表現活動に対してなされた感激とは思えません。まさにアート空間と化した中学校のもつ大きなエネルギーを感じ、そこに包まれる体験をした来場者が打たれる衝撃、本質直観的なそれが、自然とそうした思いとなって表れたのではないかと思うのです。

プロジェクトとしての「とがび」

こうして準備が進められたのが2006年、第3回目の「とがび」でした。この年の「とがび」は、中平先生のさまざまなアイデアと行動力が一挙に多方面へと花開いた、実に実り多いものでした。このあたりについては中平先生自身の稿に譲るとして、この年、私のもとに届いた出展依頼は、「今年の「とがび」はテーマがあります」と始まっていました。前年に引き続いて私を担当してくれることになったキッズ学芸員は、戸倉上山田という地域をテーマに、さまざまなジャンルや切り口で作家に作品制作をお願いしていること、各作家とキッズ学芸員がそれぞれ「プロジェクト」として企画を実施することなどをたんねんに説明した後、私には「インスタレーション」という形式で、「温泉祭りプロジェクト」を引き受けてくれないだろうか、と結んでいました。キッズ学芸員による作品のイメージスケッチも添付されており、私は彼女たちが「プロジェクト」の意味をしっかりと理解していることに驚きと喜びを感じました。

日本語でいう「事業、計画、企画」を表す「プロジェクト」は、アートの領域でも、さまざまな人々が、その興味や能力に応じて力を出し合い、ひとつのものをつくっていくという意味で使われていると思います。個人の制作物を「作品」と呼ぶなら、その対極にあるのが「プロジェクト」でしょう。アートにせよ、教育にせよ、まちづくりにせよ、プロジェクト的な発想で世の中を問うていこうという姿勢が、「とがび」には一環して流れていると思います。それが今回は大きな流れとなり、目に見えるかたちで実を結ぼうとしているのだと思いました。

アーティストや教師、街の旅館や商店主など、人が個人としてできることには限りがあります。しかしそれらさまざまな興味や能力をもちよれば、無限に近い可能性が開けてくる、それもそんな遠くにある話などではなく、自分たちのすぐそばで、ちょっと勇気を出しさえすれば、明日にでも同じような考えをもった人と容易に豊かな関係性が築ける、そうした意味で人と人をテーマに生きていこうという信念――決して人とモノとではなく――、それが「とがび」に関わる人々を、ここまで突き動かしてきた原動力ではないかと思います。

ところで、私が依頼を受けた「温泉祭りプロジェクト」の「温泉祭り」とは、戸倉上山田温泉の夏を彩る風物詩であり、中平先生いわく「戸倉上山田が一年で一番輝く時」だそうです。何日かにわたって行われる花火大会が、そのクライマックスを飾ります。キッズ学芸員から提案されたのは、その花火を教室全体にはりめぐらせた毛糸で表現するというものでした。

仙台に住む私と、長野のキッズ学芸員の間で、やり取りが始まりました。私は提案された「温泉祭り」というテーマと、花火を毛糸で表現したいというアイデアをもとに、これをさらに肉付けしていくような提案を行い、キッズ学芸員はそれが可能かどうかをフィードバックしていく、ひとつの主題をもとに変奏していくような活動が、夏から秋にかけて行われました。

私は、温泉祭りで行われる花火大会の音を録音し、これを作品に使うことを提案しました。また、花火のもつ動きと色を表現したいと思い、端を教室の天井に固定しながら、毛糸玉を天井から落下させ、これに投光機で何色かの光を当てるプランをつくりました。屋内で行うこの「落下」を「オープニング・フォールズ」と名づけ、「とがび」初日の朝10時にセレモニー的に行うとともに、2日目の朝には、中庭をはさんで向かい合う3階建ての校舎をロープで結び、ここからくす玉状に毛糸を落下させる屋外での作品「グランド・フォールズ」を企画しました。また、「温泉祭り」について調査してほしいとたのみました。

キッズ学芸員はこれに基づいて、その夏、花火大会の音を録音しに行き、観光協会から紹介された街の長老に「温泉祭り」の「トリビア」を聞き出し、学校では教室や中庭のサイズを測定し、教室天井の状態が毛糸をつるすのに耐え得るかを試しました。また、私が花火の音のバックに印象的な現代曲を流したいと言うと、これらの可能性を放送委員に打診したり、毛糸に当てるライトを体育館でチェックしたり、着々と準備を進めていきました。

特に難問だったのは、教室の天井から毛糸を落下させる仕組みで、天井はかなり脆弱な状態だったために、くぎやヒートンを打つことができず、キッズ学芸員たちから、いったんは「ムリです」との回答を受けました。そこでこちらで再度アイデアをねって送り返すと、それにさらに改良を加え、これを何とか解決してしまいました。自分たちで近くのDIYショップまで出かけて材料を購入し、電話で私の了解を取りながら、自分たちのアイデアをかたちにしていきました。「とがび」前日、私が到着すると、それはしっかりとできあがっていたのです。

こうした話は私の「温泉祭りプロジェクト」に限らず、「とがび」の中で行われた他の「プロジェクト」ひとつひとつにも起こり、「とがび」はあちらこちらで、本当に美しく豊かな花を咲かせていました。

「とがび」が拓いたもの

以上、一参加作家の目から見えた「とがび」を描いてきました。最後に「とがび」と中平先生が拓いた地平を私なりにまとめてみたいと思います。

中平先生は、学校教育という場から出発され、それを開かれたものにしたいと努力を重ねて来られました。それは単なる願望やお題目ではなく、学校が本当に開かれ、外部の協力を受ければ、今よりもっと豊かでリアルな教育を施すことができるという、ほとんど信念と言ってもよいようなひとつの仮説に立って「とがび」を構想、実施されました。この3年間の実績は、これが正しかったことを明確に証明したと言えます。しかしこの誰も反対できないほどに正しく思える「開かれた学校」という「理想」は、実際にはどの程度現場で受け入れられているでしょうか。

事は学校教育に限りません。例えばアートの領域についても同じことが言えると思います。アートはアーティストやアート関係者といったむら社会的な集団のものではなく、当然ながらそれ以外の人々にも開かれたものであるべきだし、開かれることではじめて価値をもつのではないか、そうすることで豊かでリアリティあふれる表現活動を行うことができる、いや、できるというより、そうしなければ表現としてほとんど意味をなさない――そんな風に私は思うようになりました。それは「とがび」の3年間によっても証明されたと思います。アートはもっと変革していくべきだし、実際その変革は「とがび」をはじめ、いろいろなところでかたちとなって現に現れ始めていると思います。

表現活動という点から「とがび」を見るなら、そこで探究された「表現」についてのとらえ方も、中平先生が拓かれた重要な点ではないかと思います。つまり、アートや美術教育というのは、感性や技術に関するもの、そういったものをのばすためのものと考えられがちですが、実は表現力の中でも、「企画力」とでもいうべき総合的な力を育むことに長けているということです。「とがび」が美術の時間ではなく、「総合的な学習の時間」を使って行われていることは、実に象徴的です。

この、何かを企画し、その実現のために関係性を構築し、最終的には場としてのそれを整備し、創り出す力というものは、現在の学校教育にも、そしてアーティストの活動にも、最も欠けているものではないでしょうか。そしてそれにも関わらず、社会で最も求められているものなのではないか、とも。

たくさんの来場者を呼ぶにはどうしたらいいかといった実際的な「企画力」についてのみならず、答えのない問いであり、その場、その時、その人との関わりの中でしか考えることのできないリアリティをもった問題に対処する力としての企画力は、近代的な空間が想定する、時間も、空間も、個人も特定されない一般的な場で、どんな人にとっても同じ答えとなるはずの問題を解く、というシミュレーションのような学校教育のあり方や、あたかもあらゆる意味を取り去った仮想空間を美術の真正な場であるかのように考え、その文脈に添って、その中でのみ通用するようなものを再生産していくようなアーティストやアート関係者のあり様に再考を迫る、リアルで生き生きとした表現力であり、それが「とがび」の拓いた表現のあり方だったのではないかと思います。

最初の2年間を経て、場としての「とがび」が、中学校という空間にとどまることなく、周辺地域へと飛び出して行ったのは、それゆえ当然の帰結だったと言えるでしょう。そしてまた、今年4年目に入る「とがび」が、「Nプロジェクト」として、具体的な場すらも設定せず、「とがび的」とでも言うべきひとつの概念の実践を広めて行く運動体へと移行したこともまた、こうした流れにあって自然な試みであると言えます。

最後に、「とがび」の大きな功績として上げたいのは、教育の場に、そしてアートの場に、「感動」というものを呼び覚ましたということです。あまりに当たり前のことではありますが、教育やアートには、本来、「感動」というものが伴っていたのではなかったでしょうか。先達者の達しえた叡智や高みに接したときの感動。すばらしい力作や労作、アイデアや知恵に触れ、舌を巻くような興奮を覚えるときの昂揚感。それらはすべて感動を基にしたものです。

とにかくいいものを見たい、つくりたい、おもしろいものにふれていたい――そうした気持ちが、「とがび」を支え、ここまでのものをつくりあげて来たのだと思います。それは「拓いた」というよりは、「取り戻した」とでも言うべきものです。そうした人間としての感覚、感動することへの喜びを素直に追い求める気持ち。そうした気持ちがあるところには、必ず扉が開かれるという信念――それこそが、私たちが「とがび」から学び、伝えていくべきことではないかと思います。