私のアート

akadowaki2008-12-15

はじめは「この私」にしかわからない何か、つまりは「私にしかわからない感動」を表現・体験するのが目的だった「アート」を、私が今現在もつづけているのは、それがいつしか「分かち合うもの」にかわったからだ、と思う。「私のアート」の主な目的はそこにある。”感動を分かち合うこと”。きれいごとでも理想でも何でもなく、まさに等身大の、それそのものの意味での。
だからそれは、第三者的に見れば――つまりそれが生まれ、育ち、どうしてそうなったかというプロセスを見ることなく、結果としてのそれ、すなわちもう「残滓」とでもいうべきそれを「見せられる者」として見るというような状況においては――「作品の強度」とか完成度とか、そういったたぐいの「評価」を与えることが「可能」になるのかもしれないのだけれども、「感動の共有」というナマの現場そのものにはりついている者にとっては、それが数えたり、量ったりすることなど不可能であること――あたかも人の命の重さをはかることができないように――は自明であって、「客観的な評価」など不可能であるか、言ってみればどうでもいいというところまで行ってしまうものだと思う。まさにそういうものだと思う、分かち合うことのできた感動というものは。
しかしかといって、ではその感動を「量る」ことがいけないことか、無意味なことかといえば、まったくそういうことではなく、そんなことを冷静に行える人こそが必要とされているのだとも思う。というより、そうした人がいなければ、それは無数に生まれては消えていく、ただの「物語」に過ぎなくなる。
ただ自分が、この私が、そうした冷静さに耐える強度や性質を持ち合わせていないということが、今回よくわかった。私は「私のアート」をやろうと思う。