ニュー・アート・コンペティション of Miyagi、歴史に学ぶとか

BookishCafe悠々房

夜、電話がかかってきて、みやぎ芸術銀河「ニュー・アート・コンペティション of Miyagi」の一次審査に通りました、とのこと。コンテストというとまったく通ったことがないので、とてもうれしい。私の出したプランはこちら
虹についてはデカルトがその著書『気象学』の中で、その現象についてほとんどを解明してしまっていたということ。知覚が思惟よりも、信じるに足りないという根拠になるのだと思うけれど、スピノザも虹について言及していて、それは神の言語なのだという(いずれも私は読んでいない)。
これまで毛糸を使った一連の作品をつくってきたが(こちら。目次など見やすくしてみました)、これをひとつの総括みたいなものにできればと思う。
今考えているのは、例の雲をつくるというのを、たとえば熱気球のバルーン・フェスティバルのときに行うとか(これとかこれ)、あるいは教育について、たとえば「よい」といった言葉について学ぶとき、その意味と価値をいっしょに学ばせるという方法でわれわれは言葉を学び、学ばせている(たとえば「「よい」とは何か」みたいなメタレベルでよりもずっと多く、「おとしよりに親切にすることはよいことでしょ」みたいにしてそれを学んだり教えたりしている)。それをちがった側面、たとえば歴史的にちがう時点(たとえば近世の学問所、こことか、で行われていたそれとか)を使って、そうしたことを示すことで、対比的にそうしたこと(指示語ばっかりでいらいらするでしょ)を浮かび上がらせることができないかと考えたり。
しかしまだ近世の学問所での学問もそうした側面があったということを私は知ってもいないのに、きっとあるはずだみたいに現時点からの視線を逆照射することでそういうことをさがそうとするのは、捏造とかそういうこと以外の何ものでもないような気もしてくるのだけれど、しかし存在や状況や客観的証拠に語らせる、とかいうのこそいかにもうそくさいことに思えるし、自分の興味や関心をもたずにそうした「歴史」を読もうとしても何もおもしろくない、というか意味がないように思う。そうして調べてみて、全然予想していたのとちがっていたら、それこそみっけもんというものではないか。
あるいは何より、よく「歴史に学ぶ」とか言うとき、同じようなことが過去にもあって、それを二度と繰り返してはならないとか、おばあちゃんの知恵袋みたいな感覚でとらえられているような気がしてしまうのだけれど、私のような人間にはこの今以外の時、しかもこの私によるこの今以外の時について考えるなんて、どうにもリアリティがなさすぎるし、ましてや繰り返すとか言われてもまったくわけがわからない。でもきっとそういうことを言う人も、そんなバカバカしいことを言いたいのではなくって、たとえば歴史的な時点がより後ろ(というか前? こんな風では結局上から数直線的に歴史を見ている人そのものだけれど)にいる私や私たちの方がそれ以前よりも「有利」な点があるとすれば、今現在「真」と思われていることが、それ以前にそう思われていたことよりも優れているとかそういうのではなく、端的にちがっているということを知りうるという点にあると思う。そして「歴史に学ぶ」というのはそれ以外のことではないだろう。つまり、どんな「真」なることも相対的である、ということ。別にそれが「真」でない、などというのでなく。
そしてそれを上に述べたようなこととのからみで表わせたら、とてもおもしろいアートになるだろうなと思う。怠け者なのできっと難しいだろうと思うけれど。