複数の視線で撮る

雲の散歩

今、真剣に雲をつくるという企画について考えている(今月はじめに考えたものはこちら)。
「雲の散歩」あるいは「クラウド9」(もちろん、ジョージ・ハリスンへのオマージュをこめて)というタイトル(日本名を前者、英語名を後者"Cloud 9"にしてもよい)で、どこか広い場所、広場や美術館の中庭、お寺の境内、中学校のグラウンドなどに、ヘリウム入りの風船とクリスマス・デコレーションなどで使うポリエステル製などのわたを使って巨大な雲を浮かべるとともに、小さな雲をいくつかつくり、子どもたちなどにそれを町へと連れ出してもらう。古い町並みや温泉街、それに大都市の大通りや草原など。もちろんそうした大がかりなものなので、多くの人の参加が必要である。というよりも、参加してもらうために大がかりなものにする。
ところでそのように「参加」ということについて考えているうちに、雲を共同でつくったり、町に連れ出して散歩をする、ということと同じくらいに、あるいはそれ以上に重要に思えてきたのは、それらを見る視線が複数であることであり、それを表現するために複数の視線で撮るということ。つまり、使い捨てカメラか何かをたくさん用意して、雲を連れて歩くグループにそれを手渡し、複数の人に撮って来てもらう。散歩だけでなく、動かない巨大な雲についても。あるいは制作についても。もしかしたら、それは制作やパフォーマンス自体よりもずっと重要なことかもしれない。現像後、それらを再び複数の視線でながめ、あれこれ話し、聞く。どれが自分の視線で、どれが誰の視線なのか。あるいは自分の視線と言い、言われているものは実際には、本当に実際には、どのようなものなのか。そして他の人のも。
どうだろう。