独我論とか

個展3日目

世界とはこの私の世界のことである、みたいな独我論的な世界に没入してしまい、そのことについていろいろと自分は考えているのだと思っていたのだけれど、最近すこし、あるいは大幅にちがうのではないかと思い始めている。
あるものやあることについて何か思ったり感じたりし、それについてひとと話すとき、それがひとにうまく伝わらないとか、正確には私が思ったり感じたりしたことはそうではないような気がする、という思いよりもずっと、私はなぜかその私にとってしか確かではないような気がするある思いや感じが、ある程度ひとに通じてしまうということ、ときにはほとんど知らない人ともとてもよくわかりあえてしまうことの方に、最近は驚きを感じる。たとえば、ある「同じ」赤いものを見て、「赤いね」と言うと「うん、赤い」ということで話がまとまって、本当に私が言う赤さをあなたは見ているのかといったことなど問題にされないということに関して、おかしいとか間違ってるとかいうよりも、あるいは社会生活を円滑に進めるために見てみぬふりをするとかいうのともちがった、うまい言葉が見つからないのだが、ある種の「適性さ」みたいなものが存在すること、いわばその奇跡ともいうべき在り方に、静かな驚きを感じてしまう。
それはたとえば、全然ちがう人間A、B、Cがいても、それを「3人」などと言って把握できてしまう能力とか、何かをさとすときに使われる「自分だったら嫌だろう?」という言葉が、なぜかおうおうにして「私は私だからそんなことわかるはずない」などとはかえされず、ある種の動かしがたい説得力をもって受け取られる、あるいはそのようになっていくことと同じ部類のことなのだろうと思う。
先の独我論について戻ると、私が「私にしかわからない(あなたにはわからない)」という思いをいだくのは、どうも突然「これは私にしかわからない」という感覚があるのではなく、誰かに「こうではないのか?」みたいなことを言われ、「そうではない」とこたえるかわりに持ち出すことが多い、多いどころか常にそのような場面でのみ使う言葉、あるいは考え方なのではないかと思い当たるようになった。つまりすくなくとも私が「世界とはこの私の世界である」といった世界観を持ち出すのは、私が哲学的な探究心をもって、「どうにも不思議だ。私はこの私だ。そして私がこの私であるというこの感じは誰とも共有できない。というか、できてしまったらこの感じではなくなってしまう」といったことを誠実に考えた結果ではなく、テストの前になるとなぜか「どうして勉強をしなくてはならないのか」とたずね出す子どもが増えるように、私でない誰かが何かを主張しようというとき、あなたがそれを主張したいと思うのと同じようにして私はそうは思わない、みたいなことを、説得の努力を怠るために持ち出す言葉なのだろうと思う。
あなたがそう思うようにこの私にもこうとしか思えないことがある、ということを起点にしてはじめられる、世界は私の世界のことだ、という主張はそういう意味で、まったくの誤りであると思う。どういう意味でかと言えば、何かを知りたいとか、はっきりさせたいとかいった欲求の外にあるという意味で。もし世界は私の世界である、といった主張を考えることに意味があるとしたら、まさにその主張を起点としてなされるべきだろう。そしておそらく、私にはそういう視点からはこの主張にあまり魅力や必要性を感じていないのだろうと思う。
なぜ言葉や何かが通じてしまうのだろう、ということの方が、今の私にはずっとおもしろいことに思える。もちろんそれが「ひとはわかりあえる」みたいなロマンチックでナイーブなお話としてでなく。たとえばもっとブラックでグロテスクな意味ででもそうであるということなど含めて。