明日から足立区、小金井

明日から足立区入りし、20日〜22日に開催される「あだちコミュニティアートフェスタ」の準備に入ります。
また、明日夕方と23日夜は現在武蔵小金井の「アートランド」で開催中の大木裕之さん主催「たまたま8」にも顔を出します。

足立区生涯学習センターの田中さんは以下のようなメールが届いています。

「一昨日からセンター内に本陣を建設中?です。
昨日は1階にもエントランスにも出現しました。
プラダンはすべてカッティングがすみ、柱も作った状況です。
あとはスタッフの皆さんにも、プラダン作りに挑戦していただこうと考えています。」

素晴らしいですねー
今回は「宿場町」をつくるワークショップのほか、21日には「コミュニティアート映像祭inあだち」や「区民コミュニティカフェ」、22日には講座「コミュニティアートの作り方」があります。
21日の「区民コミュニティカフェ」では、北千住在住のアーティストの方や足立区生涯学習センターのスタッフの方などを交えて、ざっくばらんに秋の「あだちコミュニティアートフェスタ」に向けた意見交換をはじめ、足立区とは何なのか、コミュニティアートに何ができるのかなど話し合えたらと思っています。どなたでも参加できますのでぜひ足をお運びください。

明日からのようすはすべてツイッターでも中継していきます。
http://twitter.com/kadowaki

また、Ustreamで「コミュニティアートチャンネル」の中継も行う予定です。

どうぞよろしくお願いいたします!

自分の内面を表現すること。そうした極私的なことが反転して公共的な問題につながっていることはままあることだし、それが例えばアートの素晴らしさでもあると思う。でも、私にとって私は、何かの場のようなもので、それ自体をどうこういうものではないような気がする。

町を車で走っていると、すごい中華料理屋が目に入るわけです。道路に看板(中に蛍光灯が入って光っている)が寝かせてあったり。そのすぐ近くにはビルのこっち側だけをすんごい色に塗ったタイ料理やタイマッサージやが入ったビルがある。たぶんああいうのを見ると、「外国人」「治安」「風紀」のようなものに結び付けられ、悪いイメージとしてのリストに入れられていくと思うのですが、私にとってはすごくおもしろいし、好きなんですね。ああ今度行ってみようかなと思うスポットなわけです。同じようなことを昨日、「アサヒアートフェスティバル」のネットワーク会議で聞きました(Ustream中継でですが)
横浜でアートをやっている「ART LAB OVA」が、若葉町でプロジェクトをやる折に、入っていいんだかどうだかわからないタイ料理屋と懇意になった(私も連れて行ってもらって何度か自分でも訪れはまった店なんですが)わけですが、その店がいつの間にか「ちゃんとした」「メニューの出てくる」普通のタイレストランになってしまった、というんですね。
去年の夏に行ったときは、本当にただの近所のたまり場みたいなところだったんですね、もちろんタイ人の。が、ちゃんと料理たのむと出てくるし、いろいろ世話も焼いてくれる。ことわざ攻撃をしてくる子どもとかもいたり、すごくその雰囲気が好きだし、おもしろい。でも「こぎれい」でも「ちゃんとした」お店でもなく、普通の人にはおそらく(確実に)入りくにかったわけです。ところがそれが秋ごろ行ったら「ちゃんとした」店になっている。
ちゃんとしたこぎれいな場所でないといけないと思わせる何か、そういう力、「圧力」が確実に存在して、それが「これが普通だろう」という生活、そういう感覚や「面白さ」、はっとする感じを奪っているように思います。
例えば、いけてない商店街や、なんともダメな過疎地にある湯治場なども事情は同じだと思います。ショッピングモール的観点からいうと商店街は品揃えも値段も卒倒するくらいダメかもしれません。でもそういうことじゃないんですよね。湯治宿もサービスという概念がないんじゃないかと思いますけど、同じくそういう価値ではかってしまっては見落とされてしまうものすごく多くのものを含んだ何かなんですよね。
確かに世の中、サービスが良くて値段が安くて、きれいで安心でけんかも少ないほうがいいように思えますけど、本当にそうなんでしょうか。
本当にこのままいっちゃっていいのか、というところにきていると思うんですね。ものすごくいろいろな生活や感覚が失われていってしまっている。安全安心安いとか何かそういう実際にはすごく暴力的で安全安心どころではないムードで。しかもあとで高くつきそうな気がする

前々から気になっていた「足立区犯罪発生数1位」「足立区ひったくり1位」について、ちょっと調べてみました。資料は警視庁の「発生状況・統計」 内の数字です
警視庁では「発生状況・統計」として、平成11年からのデータを公表していますが、同ページにリンクをはるかたちで「犯罪発生マップ」「犯罪情報マップ」というのがあり、これが「足立区犯罪発生数1位」「ひったくり1位」の根拠になっているようです
しかし「犯罪発生マップ」では足立区はあんまり赤くないんですね(赤いといろいろな犯罪発生数が多い)。
それからそのおおもとになっている「発生状況・統計」の数字、例えば「第33表刑法犯の罪種別認知・検挙状況」などで見てもあまりピンときません
では何がマスコミやツイッター上をにぎわせているかというと、どうもこの「犯罪情報マップ」のようです。
「犯罪情報マップ」では東京都の区市町村単位で「全刑法犯」「ひったくり」「侵入窃盗」「車上ねらい」「自動車盗」「オートバイ盗」「自転車盗」「粗暴犯」の8つの項目における認知件数が参照できるようになっています。犯罪が多いところは赤く、少なくなるにつれて緑へ表現されます
この「マップ」で見ると確かに足立区は「全刑法犯」で1位、「ひったくり」でも1位、「車上ねらい」でも「オートバイ盗」でも1位で、とんでもなくキケンな区に見えます。おそらくこれが足立区=無法地帯みたいなツイートの連鎖の根拠になっているものと思われます
「ひったくり」の件数について見てみると、1位の足立区では198件、2位の江戸川区では194件、3位は世田谷区で150件です。警視庁の「発生状況・統計」でもこれを見てみようと思ってさがしたのですが、どうも見つかりません。というのは「ひったくり」は窃盗の一部なんですね
「発生状況・統計」では「窃盗犯」を「侵入窃盗」「非侵入窃盗」に分けています。このデータではそれほど足立区が突出しているように見えなかったのは、「犯罪情報マップ」のように「ひったくり」という項目を設けていないからなんですね
逆に「ひったくり」という項目を設けると、とたんに足立区は「犯罪帝国」のように見えてくるから不思議です。ところでこの「ひったくり」の刑法犯における割合なのですが、足立区の全刑法犯11086件のうち1.8%に過ぎません。
ところで犯罪といえば、新宿区はどうでしょう。新宿区は全刑法犯認知件数堂々2位の10976件。1位の足立区との差は110件です。ちなみに3位は江戸川区の10219件。4位は世田谷区10175件とつづきます。ところで新宿区の「ひったくり」は13位、58件に過ぎません
こうして見てくると、年間198件の「ひったくり」がなぜそんなにも大きなイメージを流通させる役割を果たせているのかが不思議になってきます。だって港区は足立区より年間100件以上も「粗暴犯」が起こっているのに「やっぱり港区だよ」とはなりませんよね
そもそも198件という規模を見てもわかるように、「ひったくり」の全刑法犯に占める割合は、足立区で1.8%、東京全域でも1.1%に過ぎない犯罪です。なぜこの「ひったくり」だけがクローズアップされ、その発生件数がたった4件差で1位の「足立区」が「やっぱり」となるのか
「犯罪情報マップ」の他の項目を見てもそうなんですね。「車上ねらい」とか「自動車盗」とか「自転車盗」「オートバイ盗」とか、「発生状況・統計」ではあっさり「窃盗犯(うち乗り物盗)」とまとめられている項目が事細かに分類され、足立区は軒並みその1位2位になっています
逆に「犯罪情報マップ」では「凶悪犯」や「知能犯」「風俗犯」「その他の刑法犯(占有離脱物横領、公務執行妨害、住居侵入、器物損壊等)」という項目がカットされています。項目を8つに分けてあるのになぜ「乗り物盗」をこんなに細かく分析し、例えば「粗暴犯」は一緒くたなのか
これはおそらく、「犯罪情報マップ」は防犯のための情報なので、身近な犯罪のみを情報として提供し、そのために乗り物盗に関する分類が細かくなったということなのではないかと思われます。しかしその「意図」はおそらくそういう風には「流通」していないのではないかと思われます

昨日、NHKで、北海道・沙流川のダムについての番組を見た。印象的だったのは、反対運動を行うことになる貝澤耕一さんが子どもの頃、昼間から酔っ払い、お弁当も満足に持ってこれない貧しいアイヌであることがとても嫌だった、という場面で、「ユダヤ人問題」とか「足立区」とすごく似たものを感じた
昼間から酒を飲み、お弁当を持ってこれないくらい貧しかったのは、実際には、狩猟民族であるアイヌに農業を強いるという明治政府による制度的欠陥が招いたものなのだが、おそらくはアイヌの「民族的本性」のようなものに還元されて語られたのではないかと思う。そういう「民族」なのだ、というように。
あたかも、そういう「本質」や「本性」をもった集団が存在し、決してその集団はそこから抜け出すことができないかのように想定させる力が存在する。そもそも「そこ」からして捏造された何ものかなので抜け出すことはできない。しかしいったい何の目的でそうした力が存在するのだろう。
例えば、「足立区民族」という言葉をツイッター上で目にしてびっくりしたのだけれど、これはものすごく「民族問題」の道具立てに似ていると思う。また、ここは別の「国」だ、みたいな言葉にも。こういう「技術」はどこから伝播するものなのだろう。そういう「本性」を我々が持っているということなのか
私は別に「アイヌ」や「ユダヤ人」や「足立区」がすばらしいと言っているのではないし、そもそもそういう抽象的なものに対して何の思い入れもない。ただ、なぜそんな抽象的であるかどうかもわからないものについてあれこれ「分析」したり「評価」したり「決定」したりできるのかと不思議に思う
また、その「分析」や「評価」が自身の目や耳、肌で感じたことなら、それなりに意味のあることだと思う。極端な話、「この私がそう思った」ということに「間違い」はありえない。しかしそういう話を聞いたとか、どうやらそうらしいということが一定の力をもって働くということ
いったいどういう力が、何の目的で、我々の間を徘徊しているのか。我々にどんな目的で、あることをイメージさせ、増幅させ、あるいはさせないのか。そこにはわかりやすい権力者や利益享受者など存在しないのかもしれない。誰が何のためにやっているかもわからず、その一部として「権力」を行使し、され、それが連鎖してひとつの動きや状態をつくっているのかもしれない。
あるいはすべて私のたいへんな誤解か妄想なのかもしれない。しかし